分割払い(後払い)の進化と個人情報 3
自動車販売(市場)の売掛管理機能分化にみる
(下記で背景が白の場合、売買を視野に入れて説明)
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昭和60年〜平成6年(1985年〜) ローン、クレジットの戦国時代
売掛回収の機能分化進行
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個人向けに、普通車(3ナンバー)が、初めて登場した。(昭和60年代初め) |
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この車は、外車を購入する富裕層を、国産車に取り込もうという戦略車だった。
発売前の方針では、
購入手段として、ローン、クレジットを使うような、
零細法人の社長には、売らなくて良いという話があったようだ。
約束手形を切って商売するのがふつうの法人で、
ローン、クレジットを組む法人は、レベルが低いという、風潮があった。
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そんなわけで、販売目標は、少なかった。
ふたを開けてみると、大ブレイク。
シーマ現象などといわれた。
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売れるとなると、様相が変わり、
従来には無い、500万円を超える融資が求められた。
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ローン、クレジット会社も、リスクの大きさに、躊躇があった。
好むと好まざるに限らず、超高額融資の時代に突入した。
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セールスマンは、ローンクレジット会社を、相見積もりする、強い立場にあった。
信販会社にとっては、、超高額融資を、辞退すると、
次に話が来ないというジレンマの中で、推移した。
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販売マネージャーや、セールスマンは、
販売に際し、丸專手形相当のお客に対して、与信する姿勢は、無なっていった。
ローン、クレジットとの営業マンとの駆け引き、に変わっていったのだ。
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丸專手形から、ローン、クレジットへの移行を決めた販売会社は
手数料確保の観点から、営業現場での無秩序な競争をやめさせ
ローン、クレジット会社を指定するところも、増えていった。
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ところで、販売会社の電算化の波は、小規模販売会社にも及んできた。 |
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各商品ごとの売掛システムは発展を遂げた。
売掛の対象となった、取引客は、最終システムである、
顧客管理システムにつけ込まれ、
そこで管理されるようになった。
この顧客管理システムは、新車、中古車、サービス、部品、保険の
取引の量に応じて、層別管理行い、
お得意様を、お得意様として遇するシステムとして、導入が進んだ。
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ここ至り、セールスマン各々が、手帳やノートで行っていた顧客管理は、
個人管理から、会社の財産としてのデータベース管理へと、
電算化により、移行して行った。
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販売活動は、従来からの、
飛び込み訪問を機に、セールスマン個人とが結びついた得意先管理から、
店頭販売へ、そして、顧客管理システムからの指示訪問リストによる活動へと
変化していった。 |
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また、この年代の後半に入ると、バブルがはじけた(平成3年) |
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当時 昭和60年〜平成6年(1985年〜)の与信審査
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信用情報センターが本格稼働する時代を迎えた。 |
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昭和59年CIC設立、昭和63年KSC設立、
昭和48年から順次設立されてきたJICの各地のセンターが33(現在の体制)となり、
先立つ昭和54年設立のCCBを加え、
ほぼ、現在の体制になった。(詳細はこちら参照)
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ネガ情報の、共有と、登録が進み、与信審査の精度がアップしました。 |
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この当時の与信審査は、
都度、信用情報センターに、オンライン検索をしながら審査を進めました
(コンピュータによる審査自動化は、まだ実現していません)
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ということは、実質は手作業レベルの審査だった。
担当者の、検索の腕前差で、与信審査結果が、大きく違うことがよくあった。
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人間のすることですから、与信審査ミスもそれなりにあり、
延滞が発生して、初めて、発覚した。
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この時代になると、ほんの一部の販売会社を除いて、
丸專手形は、姿を消した。
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換言すれば、販売会社自身の持っていた、与信審査能力は、風化した。
これは、産業構造の機能分化の結果として、
デメリット面も、浮き彫りにしていくことになる。
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後半の時代は、バブルがはじけ、失われた10年に突入したが、
与信審査の観点から見ると、
非常に興味深い事実が分かる。
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それは、無担保融資(人的担保)が、不況に強いということだ。
バブル崩壊とは、土地を担保(物的担保)とした融資基準の崩壊だと、
言い換えることも出来よう。
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日本中の銀行は、査定を繰り返すたびに、
不良債権の山が増えて行った。
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しかし、この時、新聞や、雑誌が取り上げた、
ノンバンクの好業績事例の秘密がそこにあった。
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後になって、「過剰な回収活動の仕方」で社会的制裁を受けるに至った、
ある法人向けノンバンクは、成功した金融会社として、評価されていた。
マスコミの記事を賑わしたものだった。
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連帯保証人(人的担保)、根保証等が、よく話題になるが、
その融資判断は、個人信用情報が基本、ということだった。
加えて、事業資金の融資ですから、業績が基本ということだった。
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その点をみると、この法人融資で、
合理的かつ、低コストな方法が、
与信審査に、取り入れられていたことが、特長的だ。
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それは、興信所企業情報の簡易版をフル活用したことだ。
つまり、融資申請をした法人が、その簡易版の対象になっていること、
そして、一定の評価点(50点)以上を獲得しているということで、
その条件を、満足すると、それだけで、
即、500万円の融資を実行した。
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この簡易調査は、法人に限らず、誰でも千円程度で入手できた。
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この簡易調査だが、
5〇〇万円時代のオートローン、クレジット審査でも利用していた。
だから、、その評価点に、納得したが、驚いた。
車の融資は、その基準評点以下で決裁せざるを得なかったのだ。
それだけ、競争が熾烈を極めていたから。
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当時、銀行は、300万円の融資で、不動産に抵当権をつけていた。
担保価値が過剰と思われるケースで、
第一優先の担保をつけるほど、融資に慎重に望んでいたということ?
単に、融資したくないだけだったのだろうか?
とさえ思われた。
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結果論としていうと、現在では、銀行融資は、物的担保ではなく、
業績を重視する与信審査に変わった。
同じ、結果論ですが、
現在、銀行は、消費者金融にも、注力している。
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どちらも、バブルという、未曾有の構造変化に耐えた
ノンバンクの「おはこ」だったものだ。
皮肉と言うべきなのか、
それとも、市場の論理の帰結?
弱者であった、新興ノンバンクを、つぶして、
強者のメガバンクがその市場を席巻しただけのこと?
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いずれにしても、バブルの崩壊に代表される構造の変化は、
21世紀を生き抜く日本にとって
踏み越えねばならない課題であった。
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2009年時点で、ふりかえれば、、
「みんなで渡れば怖くない」は、「最も怖いこと」であったということだろう。
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昨年の、アメリカ発のバブル崩壊は、世界を震撼させているが、
いつのまにか、
日本は、解決例の、お手本だとか?
いち早い、世銀に対する、莫大な融資表明が、
100年ぶりの、恐慌再来の悪夢を振り払ったとする、
信頼ある、評論家の、情報発信が、注目される。
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本当に、日本は、「踏み越えたのであろうか?」
それはおろか、イニシアチブをとって、
恐慌発生を封じ込める貢献をするほどに、先進なのだろうか?
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